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チュウ太のウィーン日記


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2001年1月9日 火曜日

新しい世紀があけて初めての授業。張り切ってクラスに行ったのだが、学生の集まりがよくない。今日までに提出という宿題が原因のようだ。2名の学生はパソコンルームからなかなか教室に来ない。また、毎回出席し宿題も欠かさずにやってくる学生の一人が、どうしても間に合わないので期日を延ばしてもらえないかと言い出した。さらに欠席者が3名いる。この学生達も宿題ができあがらなかったから休んでしまったという可能性が高い。3週間という長い休みがあるので大丈夫だろうと宿題にしたのだが、十分なトレーニングなしに1000字程度の意見文を書かせるのは、負担が大きすぎたのかもしれない。

ウィーン大学の学生達は総じてまじめで、しかも教師の指示に対しては驚くほど素直に従う。そのため宿題はかくかくしかじかと言えばそれに文句を言う学生はほとんどいない。日頃学生達の日本語力には感心していたし、昨年末に手渡した教材バンクのCD-ROMにも意見文がたくさん入っているので、つい気楽に「自分たちで自由にあれこれ読んでみて、一番書きたいと思うことについて自分の意見を書きなさい」と指示してしまった。こちらとしては完成品を求めていたわけではなく、まず一度書かせた上で、説得力のあるものにするための推敲作業をクラスでしようと思っていたのだが、かなり身構えないと書けなかったようだ。本来なら彼らに対しても、これまで東京国際大学や早稲田大学の留学生に対する作文指導や日本人学生に対する文章指導で行ってきたように、400字くらいの短いものから順次練習させた方がよかったのかもしれない。なまじ「応用日本語」という枠組みで自由な授業展開をしていために、ちょっと先走ったかなと、深く反省しながら、授業を開始した。

ところが、実際に提出された4人のものを見るとこちらが思った以上に内容の濃いものだった。しかも長めのものを要求したし、授業当初にネットにのせようという話もしてあるので、気合いを入れて書いているようだ。期限に遅れて提出されたものもかなり深くつっこんだ議論を展開しようとしていた。このクラスの学生達の場合、それぞれ、こうした意見文の作成自体は母語あるいは他の言語でトレーニングをつんでいるように思われる。実際にそれぞれがこれまでどのような作文指導・論文指導あるいは討論・意見発表等の訓練を受けてきたのか機会をみつけて詳しく聞いてみたい。

今日の授業は各自の書いてきた意見文を互いにチェックしあう予定だったのだが、上記のように提出したのが4名のみではそうもいかない。急遽、予定変更。一番早く提出してくれた日本からの交換留学生のT君の意見文「クローン人間は誕生するか」を読みながら、皆でディスカッションすることにした。

工学部に在籍しているT君は「クローン人間の存在も認めざるを得ない時代がくるのではないか」という意見を持っているようなのだが、提出された意見文では、そのあたりがはっきりと出ていなかった。「クローン人間」が作られた場合のメリット、デメリットについて次のように書いている。

これを軍事的に考えるととても恐ろしい事もありえる。もし、一人のエリート兵士の遺伝子を使って同じクローン兵隊を何万人も作れば、同じ意思を持った兵が誕生するわけである。無線等の伝達機関を使用せずに、攻撃及び侵略が出来ることになる。性格が同じならば考える事も同じなのだから。これほど戦場に於いて有利になることはない。

ただ、良い方向を考えると、あながち「クローン人間を作るべきではない」と言えないという部分もある。例えば、難病の人々を助ける為に、彼らの正常な遺伝子を採取して、そこから新しいもう一人の自分を作れば、拒否反応を生ずることなく完璧な移植手術が可能になる。これは、今後の難病解決にも大きく反映する手術方法であると言えるだろう。一見小さい事のように思えるが、医学的にこれほど凄いものはないと思う。

そして、結論は

もちろん、宗教的に考えると「それは神への冒涜だ」と考え、絶対に許される事ではないという人も多くいるだろう。ただ、大多数が無宗派の日本において、この考えは気にされないだろうし、利点の面がかなり大きい「クローン人間」は存在してもおかしくない。(中略)もしかしたら地球のどこかでもう一人の自分が違う場所で生活をしているかもしれないと思うと、「恐ろしい」という実感よりも、「もしいるならば、会ってみたい」と思うのが自分の考え方だ。

というものだった。

一通り彼が単語の説明を交えながら意見文を読み終わると、クラスの皆がそれぞれに何か言いたくて仕方ないというディスカッションの雰囲気になっていた。議論の中心は「果たしてクローン人間は元の人間と同じ人間になりうるのか」という点と「クローン人間は人間か臓器移植のための材料か」という点に絞られた。クラスの大勢が「クローン人間も独立した人間である」「クローン人間を戦争を行う兵器、臓器移植のための材料としてつくるべきではない」という意見に傾く中で、T君は必死で「クローン人間」が作られる必然性、またそのメリットを強調していた。

その議論の過程で「現在の科学技術も情報技術も最初はみんなそんなことができるものかと思っていた。でも今はみんなにとって当たり前になっているじゃないですか」という彼自身の考えの中心テーマが現れた。いつになく真剣な口調になった彼の意見を聞いて、「そうですね。クローン人間もできてしまえば当たり前になるかもしれませんね。それは私もそう思います。」という意見が出てきた。そして、話題はクローン人間の人としての権利をどう考えるかに移っていった。「だから、その前にクローン人間の権利の問題をきちんとしておかないといけないと思います。」「クローン人間は人間でしょ。クローン人間が人間と差別されればまた新しい差別の問題が生まれてしまいますよね。」

クラスの一人一人が生き生きと自分の考えを述べあっている。中には「クローン人間の人格を無視してはいけないと思います。」と言って涙ぐんでしまった学生もいる。こんなに真剣なディスカッションが繰り広げられるのであれば教師など不要である。こちらも一緒になって議論に加わってしまった。

当初の予定とはかなり異なった授業展開になってしまったが、学生達はさらに議論を続けながら帰っていった。オーストリア人の議論好きは知っていたが2年、3年、学んだだけの日本語を使って自由にディスカッションを繰り広げることのできる能力には感服した。彼らにとってディスカッションは思考ゲームの一つなのだろう。

☆一言メモ☆

今日はチュウ太は出る幕がなかった。生身の人間同士のディスカッション、それにまさる教育はない。言葉の壁などはまるで存在しないかのように、自由に日本語を使って日本人学生を相手に議論するウィーン大学の学生達をみて感心するとともに、うらやましささえ感じてしまった。


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