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チュウ太のウィーン日記 |
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2001年1月23日 火曜日
今日の授業は通常より1時間前から始まった。今年になって全然授業に来られなかった学生のための特別指導である。彼は法学を専攻しているのだが、その専門のセミナーがぶつかっていて来られなかったのだという。ウィーン大学では主専攻の他に副専攻を取ることができ、日本学は副専攻として選ばれることが多い。そのため、専門の授業の集中講義等とぶつかることもよくある。こうした場合に、学生にどこまで便宜をはかってやるべきか迷うところだが、日頃の熱心さを考えるとなんとかしてやりたい。授業前に研究室に来るようにと指示し、個別指導となったわけである。 本人も冬休みの課題については承知していたので意見文を書いて持ってくるものと思っていたら、資料だけ持って現れた。ウィーンの教育制度と日本の教育制度とを比較した文章を書きたいのだが、まとめられなくなってしまったと言う。日本の教育に関する資料をネットで探したがいい物がみつからなかったので日本大使館にまで行った。すると、とても丁寧に対応してくれてドイツ語に訳された分厚い資料までくれた。そのため今度は資料が多すぎて、肝心のテーマに関してなかなか絞りこめずにいたのだそうだ。彼は頭の中に言いたいことが山ほどある状態でやってきた。「ともかく何について話したいの?」と聞くと、日本との比較を交えながらオーストリアでの教育改革の結果起こった問題点を次から次へと話し始めた。「で、何が問題なの?」「それでどうしてほしいの?」と適宜質問を差し挟んでいたところ、彼自身で自分が何を言いたかったのかがわかったようだ。「日本に対して具体的な提案ができるわけじゃありません。でも、ただ成績を重視しないという教育改革だと、オーストリアと同じ問題が起きる可能性があると思います。」そんな結論を自分自身で出すことができた。今週末までに必ずメールで送りますと言って帰っていった。どんな意見文ができあがるか楽しみである。 彼の意見文作成に対する基本姿勢には多いに学ばされる。きちんとした意見文を書くためには客観的な資料を使う必要があるからとまず資料集めから始める、この大切なことを日本の大学で、一体どの程度きちんと学生達に教えられているだろうか。学生達の資料集めの目的が、考えるため、自分の主張の根拠を明らかにするためではなく、それを写すためになってしまってはいないだろうか。 さて、授業は改訂版の提出のあったLさんの文章をみんなで読むことから始めることにした。彼女は先週の授業の後すぐに、友人達からコメントされた部分を書き直してメールで送ってくれていた。始める前にクラスの皆に、互いの文章を読みあうことについてどう思うかを聞いたところ、役に立つし、面白い、特にディスカッションは重要だという答えが返ってきた。思っていた以上に肯定的な反応が戻ってきたのは嬉しかった。 彼女の意見文は「人間の相棒としての犬」と題されたもので、人はなぜ犬を飼うのかという問題を取り上げている。その理由として次のように述べている。
すでに改訂版なのだが、この文章をそのまま読むとオーストリアで犬を飼っている人々はずいぶんおそろしい人が多いんだなという印象を受けてしまう。この文章の問題点を指摘してこれはこう直しなさいと言ってしまえば簡単なのだが、c.は「オーストリア人」を主語としていいかという問題、d.は単語の選択の問題で、クラスで是非扱いたい。そこで、まず、それぞれの項目についてどう思うか各自の印象を語ってもらった。すると、d.については、そんなことはないという反応もあったが、c.は、「そういう人も結構いるんじゃないですか」という程度の反応だった。 「オーストリア人はドーベルマンなどの闘う犬が好きな人も多い。」と「オーストリア人ではドーベルマンなどの闘う犬が好きな人も多い。」とのニュアンスの違いは、学習者にとってそのままでは理解しにくいようだ。「日本人は交通事故で死ぬ人が多い」「日本では交通事故で死ぬ人が多い」の例を出し、この意味の違いを説明したところ、なるほどと感じてもらえたようだ。このあたりのニュアンスの差は、単語の意味のみがわかっただけではまるで伝わらない。チュウ太では教えられないこと、まさに授業でなければ説明しきれない部分であり、読解の授業で扱うべき部分である。ところが現実には読解教材には日本人の書いた文章を用いることが多いため、こうした問題が見えてこないという部分がある。学生の書いた文章そのものをクラスでじっくり読むという作業を通してのみ教えられることがあるのだと改めて感じた。 「生き物を抑圧したいために犬を飼っている」に関しては、Lさんは辞書もちゃんと調べたし「抑圧」でいいんだと主張する。そこでドイツ語の「抑圧」にあたる単語の意味が日本語の「抑圧」よりも広いのかと思ったのだが、そうでもないらしい。学生達から「そんな人はほとんどいないと思いますよ」という意見が出てきた。ドイツ語に直して表現してもらったところ、やはり彼女の言葉の選択自体がどうも一般的ではないようだ。そうなると今度は個人のものの見方そのものに属するところなので安易に単語を変えさせるわけにはいかないだろう。「抑圧」という特殊な言葉を使うのであればそれ相応に読者が納得できる例が必要ではないかと言うにとどめ、あとは彼女自身の判断に任せることにした。 また、文章全体から見た場合、この意見文では「オーストリアと日本の犬の飼い方の違い」「犬と飼う理由」「ロボット犬アイボ」と3つのテーマを扱っているため、全体にまとまりを欠くものになってしまっているという印象があった。ところが、学生達はこの3つのテーマがそれぞれに興味深いものだったためか、これはこれで面白いし、論理が飛躍している部分は読む人がきちんと補えばいいのではないかと言いだした。しかも構造は起承転結になっていると言うのだ。それはそうなんだけどーと思いつつ、その視点からもう一度読み直してみると、確かに彼女の文章は起承転結という文章構造に、きちんと則って書かれている。文章がまとまりを欠いて見えるのは、起と承との関係が弱く(そのためこれが既に転に見え)さらに転に当たる部分が長すぎて結論部分にまで入り込んでいるからだ。その結果、結論が唐突で短すぎるという印象が残る。この文章を書いた学生の視点から見直すことでこの文章のどこが問題なのかがむしろ浮かびあがってきた。これが添削指導あるいは個別指導であれば、教師独自の判断で、テーマを1つに絞り込みもう一度文章を書き直してみるようにと指導したり、段落の順を入れ替えて結論をあと一工夫と指導してしまったかもしれない。各自の書いた文章をクラスの皆で読んでみるという作業を通して今日はまた新しいことを教えられた気がする。 授業の最後は「授業評価」だった。学期の終わりに学生達が個々の授業を評価するというものである。ウィーン大学では3年前から科目の担当教師が希望する授業において実施されていたが、今年からは全学的に実施されることになった。評価用紙は無記名で、A4の用紙にびっちり書かれた質問項目に対して「非常に良い」から「非常に悪い」までの7段階かK.A.(無回答)に印を付ける形である。教師の教え方・授業内容・教材等に関するものから学生自らの参加度に至るまで細かい質問が用意されている。さらに用紙の下部には自由回答のコメント用のスペースがあり、自由に切り離せるようになっている。 この評価用紙の配布から回収に至るまで、教師はいっさい手を触れてはならない。クラスの学生から責任者を選び、その学生が配布回収作業をすべて行う。責任者が封筒の封をしサインを終えた段階で、教師もその封筒にサインする。封筒自体も責任者が自ら事務局に届けるというしっかりした仕組みになっている。 学生達が評価表に記入している間こちらは別のことをして待っていたが、このような形で評価を受ける間はなんとなく不安なものである。皆はこの授業をどう評価しているのだろうか。今回の授業評価の結果も気にはなるが、それよりもっと具体的なことも聞きたい。来週が最後なのでじっくり皆に聞くことにしたい。 ☆一言メモ☆ 助詞の選び方、単語の選び方1つで文の意味がまるで異なってくる場合がある。読解の授業ではまさにそこのところをじっくりやりたい。そのために、学生自らが書いた文章を教材として扱うことには多いに意味がある。 |
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