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チュウ太のウィーン日記 |
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2000年11月7日 火曜日
今日の授業は前回の続きで、各人が書いた手紙をもとにしたディスカッションである。各人の手紙を印刷して教材として使う許可は前回得ておいたので、安心して全員の分のプリントを用意した。私の授業ではこうした授業形態をとることがよくあるため、学年や学期のはじめに、各自の書いた物を教材として使うことがあるのでそのときはよろしくと言ってある。そして、面白い文や皆の参考にしたい文を必要に応じて教材として使わせてもらうことは多いのだが、全員の文を印刷する場合には事前にもう一度許可を得るようにしている。 作文指導の場合、どんな学習者であれ、友人の書いた文には関心を持つし、まして自分の文が印刷され皆の前に教材として出てくると、非常に面はゆい感じを抱く。その思いをうまく学習効果にまでつなげるには、前回も書いたように、まずその文のよいところを評価する必要がある。その上で、文法や表現や構成上の問題点の指摘や訂正作業を行う。学生達は自らも苦労して書いたので、友人の文章のいいところをうまく見つけだすことができる。「自分の体験が書いてあるのでとてもいいです。」とか「こう書いたらきっと返事を書きたくなると思います。」というコメントが寄せられる。すると時には書いた本人から「ええ、そう思って書きました。」という反応が返ってくる。また逆に「この表現はうまいですねえ。知りませんでした。」という指摘に「辞書で見つけました。」という種明かしがあったりする。学習効果が最もあがる教材は学習者の能力をiとすればそれより少し高いi+1の教材であると言われているが、ともに学ぶクラスメートの書いた作文はそういう面からも価値がある。 今回最も問題となったのは、中学生の意見文に対して反対意見を述べるときにどこまではっきり言っていいのかという点だった。 まず問題となったのは次の手紙文である。これは「いろいろな国の人とコミュニケーションしたいので完璧な英語が話せるようになりたい」という意見文に対して書かれた物である。 「英語を話せることは便利だと思います。まして、英語の教師になってあなたの知識を伝えるという希望は素晴らしいと思います。私は一つの外国語を完全に話せるようになるのは無理だと思うので完璧である必要はないと思います。あなたは目標がきちんとしているのでその目標を叶えられると思います。ですが、世界中の人を理解したいのであれば英語だけでは不十分だと思います。英語を話せればコミュニケーションを取ることはできますが、それぞれの国の人の母国語を理解できなければその国の文化やその国の人の考え方がわからないと思います。ですから英語だけではなくもう一つ何か他の国の言葉を勉強してはどうでしょうか?」 この「無理だと思う」という表現が中学生の夢をつぶすのではないかというのである。それに対して、これは事実だしあくまでも書き手の判断なのだからこのままでいいという意見が出た。ところがさらに「無理」という言葉が持つ否定的な響きがせっかくの中学生の勉強しようとする気持ちを失わせてしまうのではという発言まであり、単語を単に並べただけでなくその言葉を通して相手にこちらの気持ちをどこまで正確に伝えるかということにまで発展した議論になった。これに関しては、書いた本人が「完璧になどとは考える必要はない」ということを言うことが目的だったと発言したので、「無理だと思うので」の代わりに「難しいと思いますし、」という表現に置き換えるほうがよさそうだということで結論が出た。 次に、ある中学生の「子供たちの笑顔が私の誇りになる日が来てほしい」という夢に対して「子供達だけに期待する夢はちょっと問題だと思います。子供達にとてもストレスを与えてしまうからです。」と書いた手紙をめぐって、どこまではっきり書いていいのかという議論が繰り広げられた。実はこの手紙はもともと「子供達に期待する夢は問題です。」とだけ書かれていたので、少し表現を和らげて相手との対話になるように書き直してもらったものである。(10月24日参照)そのときは最初のものに比べて柔らかくなったのでほっとしたのだが、こうやって改めて見てみるとまだまだ語調がきつい。 学生達からは、まず、自分の意見がはっきり述べられているし、適切な理由も述べられているのがいいというコメントがあった後で、「でも、これって受け取った人はショックですよね。」「厳しいですねえ。」という指摘があった。それに対しては、「でも事実でしょ。」「意見文を書いた人の夢がおかあさんになりたいのか、幼稚園の先生になりたいのかによっても違ってきますね。」「中学3年なら15歳くらいでしょうから、期待されすぎると子供がストレスを感じるというこの意見は充分理解できると思います。またそのことを考えさせることも大切だと思います」という反論があり、さらに「でも日本人は自分の意見をはっきり言わない習慣があるから、ここまではっきり言われるとやっぱりかなり厳しく聞こえるのでは」という意見も出た。 この問題は、何をどこまでどう言ったらいいかという異文化コミュニケーションの根幹に関わる問題で、一番難しく、かつ、面白い問題である。無理矢理ここで結論を出してしまうことは避けたかったので、今後中学生から返事をもらった時点で、もう一度改めて考えてみようということで授業を終えた。 いよいよわくわくする展開になってきた。と同時に小豆島の中学生を含め、参加者それぞれの考え方、生き方が大きくかかわってくる。本物の相手とのコミュニケーションは、言葉とその使い方、さらには、その受け取られ方まで充分配慮していく必要がある。この一連の活動を通して一人一人がそれなりに何かをつかんでほしいと思う。そして自らの考えを的確に述べると同時に受け手の心を思いやり表現を適切に使い分ける能力を伸ばしていってほしい。 ☆一言メモ☆ 何をどこまでどう言うかという問題は決して異文化間だけの問題ではない。だが、異文化間コミュニケーションにおいては、相手の受け取り方がわからないだけに、十二分の配慮が必要な問題である。 |
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